三基の曳山を中心に、当地で育まれた豊かな祭り文化を紹介しています

これまで、各町内の山蔵に保管されてきた曳山を一同に展示するとともに、 曳山にまつわるさまざまな資料、煌びやかな衣裳・小道具類の数々、出町の歴史・文化を紹介しています。

曳山は、ガラスなどで囲うことをせず、手に届くような距離からご覧いただくことができます。また、曳山を取り囲むように通路や緩やかな階段を配置することにより、さまざまな角度から、 さらに2階からも曳山をご覧いただけるようになっています。


展示ケースには、『曳山の歴史』『子供歌舞伎の衣裳』『浄瑠璃文化』『出町の歴史』など、それぞれのテーマに沿って、 わかりやすく説明文を加えて、さまざまな資料を展示しています。展示されている資料、衣裳や小道具は、できる限り現在も使用されている本物を展示するようにしています。

  


曳山展示室から続く2階・情報展示コーナーでは、出町を含めて全国に6ヶ所で行われている曳山子供歌舞伎の紹介、富山県内各地の曳山の数々、 また砺波地方に数多く伝承されている獅子舞文化、太鼓や民謡、さらに出町のもう一つの大きな祭りである夜高祭りなどの、当地で育まれてきた豊かな祭り文化を紹介しています。


展示物の一部をご紹介します

杉木新町町立願書

慶安2年(1649)の正月、杉木村肝煎の二郎兵衛を筆頭に16名の連署による町立願書が加賀藩に願い出され、同3月に町立は認められます。 願書には、概ね次のようなことが書かれています。

砺波の杉木は元高岡様(前田利長高岡居住の際)の御代市場を開いて、町立であったが慶長十三年庄川大氾濫のため、つい押流されて散り散りになって しまいました。それを復興して市場のできますよう、町立をお許し下さるよう御願いたします。市場の復興をお許し下されば、太郎丸村の内八十石、杉木村の内十石、深江村の内十石、 都合百石の地面を戴いて町屋敷とし、長さ三百間横八十間の間に家百軒を建てたいと思います。こうして町立のお許しがありますれば、潰れました百石の地積はきっと今後三年間に新たに開墾して 指上げますによって、何卒御許し下さいますようお願いいたします。

しかし、慶長13年に大洪水はあったが、その時既に市場があったことは何ら記録にはありません。これは二郎兵衛らが願いを貫徹する方便として、新規の町立てよりも 荒廃した市場の復興という風に考えたものではないかと思われます。

  

番匠屋の彫刻下絵

平成18年(2006)、木彫りの町井波の老舗 番匠屋で、 西町の見返りの彫刻「関羽読書図」の下絵が発見されました。

下絵には「明治五年」とあり、幕末から明治にかけて行われた、曳山改修の際に描かれた下絵であることがわかりました。 同時に発見された百数十枚の下絵についても照合が進められると、西町曳山の欄間や破風、東曳山の欄間の下絵などが確認されました。

その中でも、幕末に描かれた東曳山の欄間下絵は、明治33年(1900)の大火で焼失する以前の初めての資料として注目されます。特に嘉永2年(1849)に描かれた スイセンとボタンの欄間の下絵は、東の山蔵で古くから保管されてきた欄間と一致することが判明しました。

  

中町曳山の墨書

中町曳山は、平成14年(2002)から3年に渡って行われた解体修理作業の中で、 大屋根や正面妻側の下地板から、幕末に行われた曳山改修に関する墨書が発見されました。

この墨書によれば、慶応4年(1868)3月に大工4人がかりで16日間の修理が実施されたことや、6人の塗師によって漆塗りが行われたことなどがわかり、 少なくとも江戸末期には、現在とほぼ同じ形の曳山であったと考えられます。

  

西町の文楽人形

出町の曳山と歌舞伎浄瑠璃が結び付いた頃から、中町、東曳山では現在のように 子供歌舞伎が行われていたと考えられています。しかし、西町では本格的なあやつり人形を使った人形浄瑠璃(文楽)が行われていました。

この人形浄瑠璃は明治21年(1888)まで続けられましたが、使い手がいなくなったためか、その後子供歌舞伎が行われるようになりました。

  

浄瑠璃名人の石碑(永安軒)

毎年、祭りが終わった五月五日に、石碑のある永安軒において、 浄瑠璃の名人や曳山祭りの発展に貢献した物故者の法要を行っており、浄瑠璃文化と子供歌舞伎の深いつながりを見ることができます。

  

東曳山の再建

明治33年(1900)8月19日、出町は空前の大火に見舞われ、東曳山が焼失してしまいます。 以来、町の人たちの曳山再建に向けた努力が長年にわたって続けられることになります。

まず、大正8年(1919)に曳山の台部が完成し、この年から仮舞台での子供歌舞伎の上演が再開されました。次に上部の建造の計画が立てられ、 大正10年(1921)9月18日、出町神明宮の社務所において、日掛銭1日2銭を月に2回集金する覚書に146人の署名を集めて、工事が始められました。

その後、逐次塗りや金箔の装飾が施されていき、台部ができてから実に17年の歳月が過ぎた昭和11年(1936)、最後の金具が打たれ現在の東曳山が完成しました。